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中村義人教授のひとことゼミナ-ル

中村義人
中村 義人
公認会計士・税理士
放送大学客員教授
東洋大学 非常勤講師
税理士法人創新會計 社員(役員)
社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか― 
第76回 監査の道
明治維新は、政治・経済から教育・国民の暮らしまで多岐にわたる大改革でしたので、国が安定するまでには多くの試練がありました。江戸時代の制度・慣習が大きく変わり、そのことが、政府に対する不平不満として日本中に湧き上がってきました。各地に紛争が発生し、その中で最も大きかったものが熊本から鹿児島までに起こった西南戦争です。明治6年板垣退助は不平士族対策としての韓国討伐が受け入られずに下野しましたが、この時西郷隆盛も鹿児島に帰りました。そして、西郷は、明治10年1月鹿児島の私学校生徒の思いがけない暴動から起こった西南戦争の指揮者となりますが、政府軍の攻撃に敗れて9月城山で自刃しました。この戦争の終結により、当時治外法権であった鹿児島が完全に他府県同様になり、政府の日本統一ができたと言うことができます。この戦いが日本における内戦の最後であり、その原因は次のような急激な社会の変化に対する抵抗であったと思われます。

・開国による物資の流通に伴うインフレの蔓延や国内産業の停滞による生活の困窮
・少数の資本家による利益独占
・地租改正による農民への圧迫(米による物納制度、いわゆる年貢から、土地の価値に見合 った金銭を所有者に納めさせる全国統一の課税制度に改めた。また、土地の自由売買や私的 所有が認められた。)
・急激な西洋化、欧化主義に対する不満(断髪、廃刀令、徴兵制など)
・薩摩・長州閥の独裁的政治、など

なお、この西郷の戦いは自ら指揮をとって始めたものではなく、時勢によりやむを得ず戦ったものとする見方もあります。政府軍方の総指揮を執った陸軍卿山縣有朋(やまがた ありとも)は、開戦後西郷に書簡を送りました。そこには「・・・有朋が見る所を以てすれば、今日のことたる勢の已むを得ざるに依るなり。君の素志に非ざるなり。有朋能く之を知る。・・・・(抜粋)」の記述もあり、この戦いの首謀者は西郷と言われているが、違うと思っている。このような同朋が殺し合う戦さは大変悲しいことであり、早く戦いを止めるように決断してほしいと訴えています。

庄内藩は明治23年西郷の言葉をまとめた「南洲翁遺訓」を発行しました。この中の西郷の言葉「会計出納は制度の由て立つ所ろ、百般の事業皆是より生じ、経綸中の枢要なれば、慎まずはならぬ也。」は紹介しましたが(第50回 監査の道 2015年7月)、政府に対する西郷の気持も次のように記されています。「万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しく驕奢(きょうしゃ)を戒め、節倹を勉め、人民の標準となるべし。然るに、草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、戊辰の義戦も偏(ひとえ)に私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目なきぞとて、頻りに涙を催されける。(一部略)」

西郷の死後、政府は反乱した賊軍の将として官位は剥奪されましたが、明治22年2月、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦免され、正三位が追贈され名誉が復活することになりました。これをきっかけとして、西郷像建設の運動が起こり全国の有志の寄付金で明治31年に上野に彼の有名な銅像が建てられました。

(参考資料)「戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える」 中公新書 小島慶三 1996
      「山県有朋 ―明治日本の象徴」  岩波新書  岡義武 1958
      「南洲翁遺訓」 西郷隆盛  角川ソフィア文庫  2007年  



西南役熊本籠城 (官軍の熊本城を攻める西郷軍 ) 「聖徳記念絵画館壁画」  明治神宮外苑発行より 西郷隆盛像 上野公園 Wikipediaより

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