中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか―
 第114回 監査の道

 前に述べました満鉄にもティラーの科学的管理法の影響は及びました。昭和初期には、満鉄は鉄道運輸事業の他に鉱業、製鉄業、水運業、電力業、倉庫業、不動産業などの事業を行い巨大な複合企業になっていました。昭和4年、アメリカの株式市場の暴落から始まった世界恐慌は、わが国経済にも深刻な影響を及ぼしただけではなく、海外進出企業にも影響を与え、これまでの経験や勘に基づいた非効率な生産方式ではなく、科学的、理論的な経営方式が採用されるようになってきました。満鉄に与えたこのような影響は、満鉄と取引を始めたリコーの創業者市村清の以下の話しからも伺えます。

 大正6年、国民的な科学研究所の必要性から渋沢栄一を設立者総代として財団法人理化学研究所が設立されました。当時、理研には、本田光太郎(鉄鋼の父)、寺田寅彦(物理学者)、鈴木梅太郎(ビタミンの発見者)、池田菊苗(うま味成分グルタミン酸の発見者)など一流の科学者が所属していました。そして、昭和2年理研の発明品、アルマイト、陽画感光紙(注)、ピストンリングなどを製品化する事業体として多くの関連会社を設立しました。それらの会社は「理研産業団」として一時は最大63社、工場121ヵ所にまでなりました。その中に、陽画感光紙を製造販売する理化学興業株式会社がありましたが、市村はその販売代理店を経営していました。

(注)現在使われている普通紙複写機の前には、無機化合物の光化学反応の原理を応用 したジアゾ式複写機が一般であった。紙にジアゾニウム塩水溶液を塗布し、乾燥させてジアゾタイプ感光紙を作り、これに文書・図面を紫外線で焼き付けてコピーをしていた。青色が主流だったため、青焼とも呼ばれた。日本でも明治時代から建築物や機械などの設計図のコピー作成に利用されていた。当初は青地に白線でコピーされていたところ、理化学研究所が反転して白地に青い線ができる陽画感光紙を発明した。白地となることで書き込みができるようになり、利便性が高まった。

 市村は、陽画感光紙の営業拡大のため、大陸にも進出しようとして次のように語っています。「満州の代理権をもらってから、私はいつかは満鉄をものにしようという志をもっていた。満鉄はいうまでもなく当時の満州の産業をぎゅうじる日本の国策会社である。これをとれば、店の業績はいっぺんに大飛躍する。柴田邦輔の友情に感激した勢いで、昭和九年、私は満鉄攻略の決意を秘めて満州に渡った。ほぼ十年ぶりの大陸渡航だった。」(私の履歴書15回 昭和37年3月7日 日本経済新聞)。柴田邦輔とは、上海時代に三井物産にいた友人で、代理店経営で在庫や売掛けが多くなり金策が大変な時に二千円の金を貸してくれた人です。当時、市村の代理店の利益分配は、一つは店員に、一つは将来のための積み立て、残りは危険負担という利益三分主義を取っていたそうです。

 市村は、昭和9年大連の満鉄本社を訪ねて、総務部能率課の責任者に会い、感光紙の売り込みをしますが、直ぐ拒絶されてしまいます。能率課の担当者が言うには、満鉄には本社だけで28の課があり、それぞれが指定の業者のものを使っており、感光紙については近く満鉄と以前からつながりのある同業者大島屋と半々出資で満州写真工業株式会社を作ることになっていて、市村の入る余地はないとのことでした。しかし、ここで彼は引き下がらず、現地に住み込んで長期戦の準備を構えました。大島屋からは、取引の妨害が行われたりされましたが、最後は、大変な努力と苦労をして、直接の担当部署である青写真室に現在採用している青写真と理研の陽画感光紙との比較試験をしてもらうところまで話しを持っていくことができました。その結果、一歩進んでいるものが良いということになり、満州写真工業の話はなくなり、各課全部が理研の陽画感光紙を採用することに決まりました。
 当時、満鉄の総務部にティラーの科学的管理法の影響から能率課が設置され、その課が主導となって性能の良い陽画感光紙に変更されたことが、この話しから読み取れます。市村が、帰国するときには、「生まれて初めて二等寝台に乗り、大連の駅では、満鉄の青写真室や文書課の人たちが大勢見送りにきてくれた。」とその感激の様子が書かれています。


(参考資料)
「茨と虹と 市村清の生涯」 尾崎芳雄 三愛新書 2014
「私の履歴書」 日本経済新聞 1962年3月




 

満鉄一等寝台車 瀋陽鉄路陳列館
TripAdvisorより



  市村清ギャラリーより
https://www.san-ai-kai.jp/

  • 中村 義人
    元放送大学客員教授
    元東洋大学教授
    公認会計士 税理士
    税理士法人創新會計 役員

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