中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか―
 第106回 監査の道

 前に夏目漱石が小説「それから」の中で日糖事件について触れていたことを前に書きましたが(第95回 監査の道参照)、満鉄についても、疑獄事件についてではありませんが、満州、朝鮮を旅行してその感想を文章にしています。明治42年秋、漱石は満鉄総裁の中村是公(なかむら よしこと、通称ぜこう、慶応3年11月-昭和2年)の招待で満州、朝鮮を旅することになりました。是公は、漱石の第一高等中学校時代の友人で、初代満鉄総裁後藤新平の後を受け、2代目総裁となった人です。漱石は、9月3日に大阪から鉄嶺丸(てつれいまる)(大阪大連航路)で門司、釜山を経て大連に向かい6日に大連に到着します。その後、満鉄に乗って奉天(シェンヤン)(現在の瀋陽市)、哈爾濱(ハルビン)長春(チャンチュン)などを旅し、さらに安東(アントン)から平壌(ピョンヤン)京城(ソウル)仁川(インチョン)などを訪れ、釜山経由で帰国の途につき、10月14日に下関に戻ります。

 この旅のことを書いた紀行文「満韓ところどころ」が明治42年朝日新聞に連載され、翌年出版されました。この内容が当時の満鉄の状況を知るのにとても興味深いので若干記してみます。まず、冒頭に漱石が今回の旅行をするきっかけが書かれています。
 「南満鉄道会社っていったい何をするんだいと真面目に聞いたら、満鉄の総裁も少し呆れた顔をして、御前もよっぽど馬鹿だなあと云った。是公(ぜこう)から馬鹿と云われたって怖くも何ともないから黙っていた。すると是公が笑いながら、どうだ今度いっしょに連れてってやろうかと云い出した。是公の連れて行ってやろうかは久しいもので、二十四五年前、神田の小川亭の前にあった怪しげな天麩羅屋へ連れて行ってくれた以来時々連れてってやろうかを余に向って繰返す癖がある。そのくせいまだ大した所へ連れて行ってくれた(ためし)がない。「今度いっしょに連れてってやろうか」もおおかたその(かく)だろうと思ってただうんと答えておいた。この気のない返事を聞いた総裁は、まあ海外における日本人がどんな事をしているか、ちっと見て来るがいい。」

 こういった経緯で漱石は、満州への旅に出ました。そして、3日間の船旅のあと一晩休み大連の満鉄の本社に着くと漱石は、「河村調査課長の前へ行って挨拶をすると、河村さんは、まあおかけなさいと椅子を勧めながら、何を御調べになりますかと叮嚀(ていねい)に聞かれる。何を調べるほどの人間でもないんだから、この問に逢った時は実は弱った。先刻(さっき)重役室へ河村さんが這入って来たとき、是公が余を紹介して、河村さん満鉄の事業の種類その他について、あとでこの男にすっかり説明してやって下さいと云ったのが(もと)で、とうとう余は調査課へ来るような訳になったものの、その実世間の知るごとき人間なんだから、こう真面目に、どう云う方面の研究をやる気かと尋ねられるとはなはだ迷ついてしまう。そうかと云って、けっして悪気があって冷かしに来た次第でない事もまた、世間の知る通りなんだから、河村さんに対して敬意を失するような冗談は云えた義理のものでない。やむをえず、しかつめらしい顔をして、満鉄のやっているいろいろな事業一般について知識を得たいと述べた。・・・・そこへ大きな印刷ものが五六冊出て来た。一番上には第一回営業報告とある。二冊目は第二回で、三冊目は第三回で、四冊目は第四回の営業報告に違ない。この大冊子を机の上に置いて、たいていこれで分りますがねと河村さんが云い出した時は、さあ大変だと思った。今この胃の痛い最中にこの大部の営業報告を研究しなければすまない事になっては、とうてい持ち切れる訳のものではない。余はまだ営業報告を開けないうちに、早速一工夫してこう云った。―私は専門家でないんですから、そう詳しい事を調査しても、とても分りますまいと思いますので、ただ諸君がいろいろな方面でどんな風に働いていられるか、ざあっとその状況を目撃さしていただけばたくさんですから、縦覧すべき箇所を御面倒でもちょっと書いて下さいませんか。河村さんはあそうですかと、気軽にすぐ筆を執ってくれた。・・・・」
漱石は、胃の調子が悪いのを無理してこの旅に出たわけですが、そんな時に難しい営業報告書を目の前に出され、さぞ胃が痛んだことでしょう。
 
(参考資料)
「満鉄」  原田勝正  岩波新書  1981
「満鉄全史」 加藤聖文 講談社  2006
「満韓ところどころ」 夏目漱石 大正10 青空文庫 Kindle 版





 

満鉄営業報告書

  大連賓館(旧ヤマトホテル)に飾られている夏目漱石の写真、右は村山富市元首相現中国銀行

  • 中村 義人
    放送大学非常勤講師
    元東洋大学教授
    公認会計士 税理士
    税理士法人創新會計 役員

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