中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか―
 第104回 監査の道

 このような経緯をもって明治39年に設立された満鉄は、本社を大連に支社を東京に置きました。そして、その定款に鉄道運輸事業と鉄道付帯事業が決められていました。鉄道運輸事業は、大連・長春間鉄道など7路線が、また付帯事業として鉱業、特に撫順・煙台の炭鉱採掘(ロシアから割譲、東洋一の露天掘り炭鉱で大連港から日本に輸出していた。※)、製鉄業、水運業、電気業、倉庫業、鉄道附属地における土地および家屋の経営、その他政府の認可を受けたる営業があげられていました。

※日本では、露天掘り炭鉱はみられないが、昭和62年経済視察としてオーストラリアを訪れた時、ニューサウスウェールズ州のハンターバレーの石炭露天掘り施設を見学した時には、その広さと埋蔵量に大変驚いた記憶が思い出される。採掘した石炭は鉄道でニューキャッスル港まで輸送され日本に輸出し、当時のオーストラリア経済を支えていた。

 営業を開始するにあたって、日本政府は従業員の確保がスムーズにいくように、色々な工夫をしました。まず、官使(日本政府職員)の身分のままで満鉄社員となることができ、適当な時期に官使に復職できるようにして、優秀な官使が満鉄に入社し易くしました。また、遠い異国の極寒の地に暮らすため、満鉄社員全員に社宅を用意し、また病気やケガの治療をするために関連各地に病院を作りました。更に本俸の5~6割増しの給与体系なども取り入れました。給与体系は月俸社員と日給社員とに分けて決め、社員は日本人と中国人から構成されていました。しかし、給与額については、中国人は日本人に比べ低く抑えられていました。
 また、教育事業にも力を入れ、小学校から、中高学校、工業学校、医師養成校、教員養成校など多くの教育機関を整備しました。
さらに、鉄道事業と密接にかかわる観光事業にも取り組み、日本や欧米からの観光客のために日本の帝国ホテル並みの高級ホテルなども多く建設しました。その代表的ホテルである大連大和ホテル(現在、大連賓館、中国の全国重点文物保護単位となっている。)は明治40年に開業し、大正3年に大連中心部の広場(現在の中山広場)前に新館が竣工しました。2018年夏に訪れた時は、建物はそのまま保存されており、宿泊はできませんでしたが、館内の見学はでき、珈琲店は営業していました。
 このような多様な事業の拡大により、満鉄の社員数は以下のように急激に増加していきました。

   明治40年   13,217人
   明治45年   20,475人
   大正11年   36,037人
   昭和 7年   32,705人
   昭和17年   296,213人

 なお、満鉄の役員構成は、総裁1名、副総裁1名、理事4名以上、監事3~5名で、監事の職務は会社の業務監査であり、株主総会提出書類の調査権、株主総会での意見陳述権、営業内容の質問権、会社財産調査権など今日の会社法とほとんど同じ職務内容が決められていました。

(参考資料) 
「図説満鉄:満洲の巨人」  西澤泰彦  河出書房新社  2015
「南満洲鉄道株式会社定款」 昭和8年6月現行 国立国会図書館書オンライン図書  1933





 

大連市中山広場の大連賓館

  大連賓館内の珈琲店

  • 中村 義人
    放送大学客員教授
    元東洋大学教授
    公認会計士 税理士
    税理士法人創新會計 役員

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