中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか―
 第94回 監査の道

 新しい社長が決まり再出発をしようとした時、会社に大変な悲劇が起こりました。明治42年7月11日早朝、酒匂前社長が自宅においてピストル自殺を遂げました。新社長が決まった後、自宅で謹慎をしていました。藤山新社長に、君の如き識見を有する後継者を得たことは糖業界と会社のために良いことである、と激励の手紙を書きましたが、社長に就任する前からすでに社内の腐敗がかなり進行しており、役人である酒匂前社長はそれを知りながら弊風を打破するだけの力を出し得なかったところに責任を感じていました。
 その遺書には「事業の実務は専務・常務・重役の執行するところではあったが、各種の弊風は私の入社前に醸成されていたところではあるが、私は決して責任を有しないと言うつもりはない。事業の窮状と株主への迷惑を見て重大の憂慮を強く感じ、窮状を良く見抜けなかった責任を身に負い覚悟を決めるつもりである。」とありました。

 渋沢栄一も、酒匂社長を紹介した手前、何らかの責任を感じていました。すなわち、「製糖業は経済財政上大切な事業で、政府においても糖業政策として必要であり、磯村、秋山達にばかり任せて置いたのでは危い、そのため大蔵大臣の推薦であった酒匂という人を社長にしたが、彼を信じていたのが間違いであり、彼は案外計算の事に疎い人であり、もし彼が今少し早く会社の計算に疑惑を懐いてくれたならば、傾きかけた態勢を引き戻すことが出来たのであったかも知れない。此点において不明(良く見抜けなかった責任)の罪を免れ得ない。」と述べています。(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』「事業に対する余の理想を披瀝して日糖問題の責任に及ぶ 男爵渋沢栄一」実業之世界 明治42年5月)

 また、自殺する前夜、酒匂前社長は2人の子供に悪い友達と付き合い悪い人とされぬように気を付けるのだと諭しました。それは、家族に宛てた遺言にも次のように書かれていました。「最愛の児よ、児等は眼前に貧窮と云ふ大敵に逼迫せり、去りながら恐るゝこと勿れ、健康と忍耐と勇気とは無限の資本なり、悲歎に換ふるに奮闘を以てせよ、忠孝節義、家を興し国に尽せよ、斯は言へるも顧みれば児尚ほ幼なるもの多し、憐む可し、児の母は今より稀有の艱難に遭遇するなり、長じたる者先づ此の消息を解し、長幼相率(あども)ひ、相携へ、能く母の命に服従し、他日誓て母に慰安と幸福とを供する事の為に勉励せよ。」

 このような悲劇はありましたが、新社長のもと会社は順調に発展し、朝鮮製糖などとの合併により、その製造を海外に広げていきました。そして、社長の長男藤山愛一郎が昭和9年に父の後を継ぎました。愛一郎は父の後を継いだ時のことを下記のように記しています。「想い起せば二十五年の昔、・・・夜遅く父が帰って参りまして、寝て居る所を起された。・・・父の言うのには、実は今度お前は子供で分らぬかも知れんが、経済界の大きな波瀾の問題が起って今渋沢男爵の御推薦に依って自分が身を挺して、此会社の整理に入って行かねばならぬ。・・・長年、御恩顧を蒙った渋沢男爵の御推薦であり、又日本の経済界が之に依って如何に動揺するかと云うことを考へるならば、自分は今一身の利害を顧みる暇なくして此仕事に従事しなければならぬ。・・・自分がこの会社に身を投ずるためには藤山一家の総ての力をここに提供して、そうしてやるのだが、お前は跡取りとして或は自分がこの仕事に失敗すれば、路頭に迷うようなこともあるかも知れぬ。お前は跡取りであるからそれだけの覚悟を持って貰いたいと云う話を私は受けたのであります。」(大日本製糖株式会社25周年祝賀会誌新社長就任挨拶第47~48頁 昭和9年7月)

 なお、会社は第2次世界大戦後、台湾や中国などの外地資産をすべて失いましたが、戦後は平成8年大日本製糖株式会社と明治製糖株式会社の合併により大日本明治製糖株式会社が発足し、今日に致っています。

(参考資料)
「餌と針」 桑原竜山  竜山書房  1919年
「日糖最近十年史」 大日本製糖株式會社 1919年


 

大日本製糖株式会社株券 昭和9年
  藤山愛一郎
国立国会図書館 近代日本人の肖像より


  • 中村 義人
    放送大学客員教授
    元東洋大学教授
    公認会計士 税理士
    税理士法人創新會計 役員

バックナンバーはこちら