中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか―
 第92回 監査の道

 日糖事件が発覚したのは、会社で内部対立がおき、明治42年4月11日に秋山取締役が検事官舎を訪れ、日本製糖が帳簿操作で不正金を捻出して衆議院議員を買収した事実を話した事から新聞に載ることになり世間に明るみに出ました。秋山取締役の告白を聞き、東京地方裁判所検事局の小林検事正は動きはじめ、事実の調査を行った結果、その申告に誤りがないことが判明しました。

 収賄議員は、政府与党の政友会(西園寺公望総裁)など三派にわたり20名の議員になり、収賄金額は400円から2万円の範囲で当時としてはかなりの金額でした。公判は贈賄者と収賄者にわけて審理が進められ、同年7月3日に判決の言い渡しがあり、収賄者側は最高重禁固10ヵ月から最低3ヵ月と収賄金額の追徴の判決が言い渡されました。 また、贈賄者側の会社重役たちに対する文書偽造行使、委託金費消及び涜職(とくしょく)(汚職)法違反については、同年12月6日に判決があり、磯村取締役は重禁固4年、秋山取締役は同3年6ヵ月、その他の重役らはそれぞれ2年以下6ヵ月の重禁固で、いずれも執行猶予が言い渡されました。

 なお、日糖事件の捜査中に関係者から石油の問題についても金が動いており、これを放っておくのは不公平である、という訴えがあり、小原検事は内偵を進めることになりました。日糖事件が一段落してほっとしているところに次の事件をやるのは大変だと思っていましたが、石油の捜査開始を上司に報告したところ、当時の桂内閣総理大臣(桂太郎(かつらたろう) 弘化4年~大正2年 長州藩士 陸軍大将)より、本件捜査は見合わせてほしいとの指示がありました。その理由は、砂糖問題で国会の信用を傷つけているのに、このうえ石油問題で国会の信用を落としては国家の不名誉であるから、ということでした。そのため、検察首脳で討議した結果、総理の意見にも一理あるということで、本件には手を着けずに終わったということです。

 このような疑獄事件は、日本製糖を大混乱に落とし込みました。検察は、本社を捜索して帳簿、書類を押収し、役員から事情を聴取し、磯村・秋山両取締役を拘束しました。事件が発覚する前の明治41年、磯村取締役は所有する自社の株式を売り叩き、これが株式市場に伝わり株式が一斉に売られ株価が下落し、さらに粉飾決算、株価操作、会社の実情を反映しない高配当などが表面化し、会社は経営危機に(おちい)りました。(第91回監査の道参照 ) そのため、同年の下半期の株主総会で相談役渋沢栄一の提案もあり、三菱財閥の経営に携わった瓜生震(うりゅうしん)(嘉永6年~大正9年 越前藩 元海援隊士)を監査役として受け入れ、会社の財産状況の調査を行うことを決めました。そこで大変な粉飾決算が見つかりました。

(参考資料)
「小原直回顧録」 小原直 中公文庫  1986年
「日糖最近十年史」 大日本製糖株式會社  1919年



 

大日本製糖本社 東京市日本橋区蛎殻町
日糖最近十年史より
  大日本製糖東京工場 東京府南葛飾郡砂村
日糖最近十年史より


  • 中村 義人
    放送大学客員教授
    元東洋大学教授
    公認会計士 税理士
    税理士法人創新會計 役員

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