中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか―
 第90回 監査の道

 鈴木藤三郎は、明治30年に一年にわたる欧米の糖業事業の視察から帰国し、翌年、糖業振興のために小冊子「糖業政策談」を作り各方面に配布しました。その中でマレー半島ではオランダ政府の製糖政策がうまくいっており、機械化により多くの砂糖を算出しているが、台湾では、その気候は砂糖生産に適当であるにも関わらずその生産方法は原始的で、ジャワに比べ3分の一の規模である、と述べています。当時、台湾は明治28年の日清戦争後、清国との間で締結された下関条約(日清講和条約)により、遼東半島などと共に主権が日本に割譲されていました。この戦争の結果、日本はナショナリズムの高揚と賠償金の獲得を背景として多方面に政府資金を投入しました。電信電話・造船業の育成、明治34年操業の官製製鉄所(のち八幡製鉄所)の建設などに充てられました。

 日本政府は台湾を統治するにあたり、産業政策として製糖と樟脳を主要産業として位置付けました。当時、三井家同族会の役員であった益田孝(明治9年、職員16名の旧三井物産を設立し初代社長に就任し、三井物産を大商社に育てあげた。)は、台湾における製糖会社設立の計画をもって井上馨(いのうえかおる、 外務卿、外相、蔵相などを歴任。近代的な銀行制度導入や三井物産などの貿易商社創設に深く関わる。)に相談し、台湾総督児玉源太郎(陸軍大将、陸相、内相、文相などを歴任。)からその計画の同意を取り付けました。そして、井上馨はこの会社の経営は鈴木藤三郎をおいていないと考え、藤三郎に社長就任を命じたのでした。藤三郎は、日本における製糖事業もあり、始めは渋っていましたが、結局、引き受けることにしました。そして、明治33年に資本金100万円の台湾製糖株式会社が東京市日本橋に設立されました。第二次大戦後は、台糖株式会社が台湾製糖株式会社の内地資産を継承し、その後三井製糖株式会社に吸収されました。

 翌明治33年、経営を引き受けた藤三郎は台湾に渡り、用地の買収や工場の建設、技師の手配、原料のサトウキビの栽培などに直接あたりました。当時、現地では、土匪(どひ、土着民で武装して集団となって略奪・暴行をする賊)の来襲があり、工場職員が常に銃器を用意して襲撃にあたったと記録されています。
現在でも、台湾製糖の施設は高雄市に保存されており、台湾糖業博物館として観光の名所となっています。私は、高雄市はこれまで2度訪れていますが、残念ながらこちらには行く機会がありませんでした。

 この時期、藤三郎にとって困難な出来事が起こりました。それは、明治34年砂糖のもつ嗜好的な性質に着目した砂糖消費税の法制化です。砂糖消費税導入に対して、藤三郎は反対して雑誌などに投稿しました。そこで、「製糖事業は今後大きく発展し、将来国家の一大財源となる。しかし、政府は国庫歳入の不足を補う名目のもと製糖業に重税を課そうとしている。製糖業に対してはむしろ振興策を取らなければならない。」と主張しました。しかし、同年砂糖消費税は制定され、砂糖類の製造者に対して課税されることになりました。砂糖類は砂糖、糖みつ、糖水に区分され、さらに数種に細分され、その細分された種類ごとに1キログラム当りの税率が定められました。この砂糖消費税は、その後長く続けられ、平成元年4月の消費税導入により廃止されました。

 最近、またこの砂糖税が復活する動きが出ています。2016年10月世界保健機関(WHO)は、肥満や糖尿病を減らすため、砂糖の入った飲料への課税を進めるよう各国政府に呼びかけました。商品価格を引き上げて消費量を減らすよう求めているのです。この新たな砂糖税は、アジアではタイやフィリピンが導入し、ヨーロッパでもイギリス、フランスが導入しました。しかし、日本では、まだ導入の計画はありません。

(参考資料) 「報徳産業革命の人 鈴木藤三郎の一生」 二宮尊徳の会 2011年
      「日本経営史」 宮本又郎、他  有斐閣 1995年



 

「台湾糖業博物館」台灣糖業公司HPより
  当時のサトウキビの収穫「百年糖業-甜蜜台糖」YouTubeより

  • 中村 義人
    放送大学客員教授
    元東洋大学教授
    公認会計士 税理士
    税理士法人創新會計 役員

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