中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか―
 第89回 監査の道

   鈴木商店は、大阪の輸入砂糖商辰巳屋ののれんを譲り受けて、砂糖の輸入商として出発して大商社に発展しましたが、日本で最初の砂糖の製造会社も明治期にできました。明治28年12月、菓子・氷砂糖製造の鈴木製糖所を継承した日本精製糖株式会社です。この会社は日本製糖業の父といわれる鈴木藤三郎によって、東京に資本金30万円で設立されました。明治32年には資本金2百万円に増資され精製100tの能力を有する工場になり、さらに明治39年、大阪の日本精糖株式会社と合併して資本金12百万円の大日本精糖株式会社に社名変更し、さらに買収を続け明治41年には1200tの製造能力を有する日本一の製糖会社となりました。

 鈴木藤三郎(安政2年11月~大正2年9月)は、静岡県森町(もりまち)の古着商に生まれ、幼少の頃同町の菓子商鈴木家に養子として入り、寺子屋で勉学に励みましたが、12歳で家業の菓子製造を手伝うことになりました。藤三郎は21歳の時にこのまま菓子商では将来がないと考え、遠見国は昔から茶の産地であることもあり、製茶貿易を思い立ち始めましたが、うまくいかず菓子製造に戻りました。そして、菓子業に励んだ結果ある程度の資金ができ、もう少し大きな事業として砂糖製造業を目指すことになりました。しかし、砂糖製造の知識は全くなかったので専門書を読んだり、専門家から砂糖の化学知識を教わり、何とかその製造方法を学ぶことができました。そして、まず始めに当時、中国からの輸入品であり白砂糖の2倍の価格をしていた氷砂糖の製造販売でした。しかし、その製造方法は中々見つからず苦労して実験を続けましたが、ある時、偶然試作中の釜の中に氷砂糖が結晶していたのを発見し、ここに氷砂糖の製造法が見つかりました。そして、明治18年、28歳になった藤三郎は森町に氷砂糖製造工場を建設し、次に東京府下南葛飾郡砂村に土地を購入して氷砂糖製造工場を移転しました。さらに、大規模な砂糖精製事業に進出することを決断して、研究を重ねフランスから製造機械を購入して明治28年、30歳の時に上述の日本精製糖を設立しました。

 藤三郎が日本精製糖の設立を計画した時、製糖事業はこれから大きな産業となる、また巨額の資金も必要となると考え、そのためには渋沢栄一などの実業界の大物からも支援してほしいと思い、渋沢に相談に行きました。渋沢は、藤三郎に対して製糖の専門家であるか、学問的素養はあるか、などと質問をし、藤三郎は自信をもって自分の知識を話しましたが、残念ながら渋沢の協力を得ることはできませんでした。渋沢は、製糖事業はわが国にとって必要な事業であるが、学問のないものが大規模な経営をするのは無理である、と考えたのでした。そして、渋沢は藤三郎の日本精製糖設立の翌年大阪に日本精糖株式会社を設立し、イギリスから精糖技師を招き明治31年に製品を出荷しました。しかし、その後明治39年、藤三郎の日本精製糖は、渋沢の作った日本製糖と合併して社名を大日本製糖株式会社としました。


(参考資料) 「報徳産業革命の人 鈴木藤三郎の一生」  二宮尊徳の会 2011年



 

鈴木藤三郎 Wikipediaより
  日本精製糖株式会社「日本之名勝」史傳編纂所
明治33年国立国会図書館デジタルコレクション

  • 中村 義人
    放送大学客員教授
    元東洋大学教授
    公認会計士 税理士
    税理士法人創新會計 役員

バックナンバーはこちら