中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか―
 第88回 監査の道

 明治元年の工業生産で生産額の大きなものを順にみると、酒造業、織物業、生糸、醤油、味噌、紙となります。そして時代が進むにつれて、砂糖製造が大きくなってきます。
 江戸時代、最初に砂糖の製造を始めたのは琉球(沖縄県)であり、その原料となるサトウキビが増産され、管轄していた薩摩藩は莫大な利益を得ました。また、各藩も価格の高い砂糖に着目し、藩内で甘蔗(カンショ=サトウキビ)の栽培を奨励して砂糖(和糖)の生産を始めました。明治になり、食生活に欧風が取入れられ洋菓子なども普及し、これに伴って砂糖の消費量が増し、明治5、6年から砂糖(洋糖)の輸入が急増しました。これまで和糖を扱っていた和糖問屋・仲買商は洋糖輸入や流通組織の大幅な変革についていけずに衰退して行きました。そして、新しい洋糖引取商として現れたのが鈴木商店でした。
 鈴木商店は、武州川越藩の下級武士の家に生まれた鈴木岩治郎が、大阪の有力な輸入砂糖商辰巳屋ののれんを譲り受けて、明治7年「カネ辰鈴木商店」として神戸で創業されました。
 鈴木商店は、その後金子直吉(慶応2年~昭和19年、高知県の商家に生まれる。)が岩治郎の後を継ぎ、樟脳工場、製糖工場など次々と製造事業を設立し、重化学工業にも進出し、明治38年神戸製鋼所、大正5年播磨造船所(現、IHI)、大正7年帝国人造絹糸(現、帝人)を設立しました。この他にもサッポロビール、日本製粉、昭和シェル石油、三井化学、商船三井など約80もの事業会社の設立に係わりました。

 事業は海外に拡大して大正4年には、直吉が従業員に宛てて書いた手紙「天下三分の宣誓書」においては、その目標として次のような三井三菱と天下を三分するという意気込みが述べられています。
「・・・此戦乱の変遷を利用し大儲けを為し三井三菱を圧倒する乎、然らざるも彼等と並んで天下を三分する乎、是鈴木商店全員の理想とする所也。」
 しかし、第一次世界大戦後(1918年)の反動や関東大震災(1923年)の影響で、工業製品価格、船舶運賃などがのきなみ下落し、鈴木商店の関係会社の業績が大きく落ち込み、さらに鈴木商店に融資していた台湾銀行の融資打ち切りにより破綻してしまいました(1927年)。破綻の第一の理由は、余りにも多様な企業を作り統制が取れなくなったためであったと直吉は述べています。そして、翌年後継会社として幹部社員らによって日商が設立されました。

(参考資料) 「マテリアル日本経営史」  宇田川勝、他編 有斐閣  1999年 
       「総合商社の源流鈴木商店」 桂芳男 日経新書  1977年  



 

「金子直吉肖像」小磯良平画 高知県仁淀川町観光協会スタッフブログより
  「鈴木商店本社屋 旧ミカドホテル」Wikipediaより

  • 中村 義人
    放送大学客員教授
    元東洋大学教授
    公認会計士 税理士
    税理士法人創新會計 役員

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