中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか―
 第83回 監査の道

前回、米国に支払った下関賠償金の話を書きましたが、当時、このような賠償金の話は、国内でも発生しました。それは、坂本龍馬の海援隊が運用していたいろは丸の沈没事件において、紀州藩が支払った賠償金として有名です。
慶応3年4月23日夜半、いろは丸は(大洲藩⦅愛媛県⦆の所有)、最初の航海で瀬戸内海の備中(岡山県)六島(むしま)沖を航行中、紀州藩(和歌山藩)の明光丸と衝突し沈没してしまいました。
いろは丸は、160トンの三本マストを備えた蒸気船ですが、明光丸は880トンの蒸気船であり、その大きさに5倍近い差がありました。いろは丸は、衝突で自力では航行できなくなり、龍馬ら海援隊乗組員34名は明光丸に乗り移り、ロープで引かれて鞆の浦(とものうら、福山市)を目指しましたが、明け方、宇治島(うじしま)辺りで沈没してしまいました。明光丸は鞆の浦に着き、現地で事件の解決をめぐって激しい談判が繰り広げられましたが、決着は尽きませんでした。
紀州藩は徳川御三家の一つ、55万石の大藩で、海援隊が賠償金についてまともに争っても勝てる相手ではありませんでした。

同年5月28日付お龍宛の龍馬の手紙には、この経緯が書かれています。
「其後ハ定而(さだめて)御きづかい察入候。しかれば先ごろうち、度〲紀州の奉行、又船将(船長)などに引合いたし候所、なにぶん女のいゝぬけのよふなことにて、度〲論じ候所、此頃は病気なりとてあわぬよふなりており候得ども、後藤庄次郎と両人にて紀州の奉行へ出かけ、十分にやりつけ候より、段〲義論がはじまり、昨夜(略)、やかましくやり付候て、夜九ツすぎにかえり申候。昨日の朝は私が紀州の船将(船長)に出合、十分論じ、又後藤庄次郎が紀州の奉行に行き、やかましくやり付しにより、もふ々紀州も今朝はたまらんことになり候ものと相見へ、薩州へ、たのみに行って、どふでもしてことわりをしてくれよとのことのよし。」

この手紙から土佐藩の後藤象二郎を巻き込み、この事件に対する龍馬の意気込みが伝わってきます。 中々決着が着かないため、ついに紀州藩は薩摩に仲介を依頼することになります。この仲介役を引き受けたのが、薩摩藩の五代才助(後の友厚)でした。
そして、五代の斡旋により紀州藩は龍馬側に7万両の賠償金が支払うことになります。五代は、龍馬とは親しい仲であり第三者としての役割(現在の監査の役割)は果たさず、その時点で紀州藩の敗北と言えました。龍馬は国内に海事法がまだないため万国公法(会計では国際会計基準のようなもの)を持ち出すなどして、粘り強く交渉しました。
特に航海日誌などを綿密に調べ、明光丸には甲板に見張り役がいなかったことなど紀州藩側の過失を追及しました。
また、いろは丸の損害額として、船の対価、積荷の鉄砲などの武器、金塊などで合わせて8万3千両の請求をしましたが、最終的には紀州藩が7万両の賠償金を払うことに決まりました。(この金額は日銀高知支店のHPに164億円とある。)
これが 日本で最初の海難審判事故とされています。
この積荷については、紀州藩は確認することができなかったのですが、 2006年に行われたいろは丸沈没場所の調査では、龍馬らが主張した鉄砲などの武器は一切発見されませんでした。従って、請求額が正しかったのかどうか大いに疑問のあるところです。
いろは丸の賠償金七万両は、同年11月7日に長崎で土佐藩に支払われましたが、僅か8日後の15日龍馬は京都河原町醤油店近江屋の2階で刺客に殺されてしまいました。そして、翌月12月7日海援隊は龍馬らの恨みを晴らすため、紀州藩、新選組隊士らが泊まる旅籠天満屋を襲います(天満屋事件)。

龍馬の死後、お龍は坂本家に引き取られましたが、坂本の兄、姉との仲がうまくゆかず、土佐を後にします。その時、お龍は龍馬からの手紙を処分してしまいます。そのため、龍馬は筆まめで多くの手紙を残しましたが、残念ですが現在お龍宛てに残っているのは、前掲一通のみになってしまいました。

(参考資料)
「龍馬の金策日記」 竹下倫一 祥伝社新書  2006年
「龍馬の手紙」宮地佐一郎 PHP文庫  1995年
「わが夫 坂本龍馬」 一坂太郎  朝日新書  2009年




 

「ふくやま観光・魅力サイト」HPより
  鞆の浦と仙酔島を5分で結ぶ福山市営渡し船
「平成いろは丸」福山観光コンベンション協会HPより

  • 中村 義人
    放送大学客員教授
    元東洋大学教授
    公認会計士 税理士
    税理士法人創新會計 役員

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