中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか―
 第82回 監査の道

今年は明治維新150年の年にあたり、政府は内閣官房に「明治150年関連施策推進室」を設け、多くの記念事業を行う予定です。
徳川慶喜がなぜ幕府を投げ出したかの理由として徳川宗家19代当主徳川斉正氏は、慶喜が幕府の財政が逼迫してこれ以上維持することができなくなったのが原因であると話されましたが(第78回監査の道)、その通りで幕府はフランスから莫大な借金をして軍艦や武器の強化に努め、長州を滅ぼし再度強固な幕藩体制を考えていましたが、龍馬の仲介による薩長同盟などにより、その目的は果たせず大政奉還に至りました。また、薩長はこれらの借金を返せない時は外国支配・植民地化が進むと考え幕府の意向に反対していました。この幕府の窮乏を龍馬も分かっており、慶応3年11月5日に土佐藩士後藤象二郎に送った手紙に、「福井藩主松平春嶽と面会するために出向いたが、会うことはできなかった。しかし、三岡と会うことができ、政治情勢について話し合った。春嶽の部下の三岡が幕府勘定局の帳面を調べたところ、幕府の金の内情はただ銀座局のみしか機能しておらず、気の毒がっていた。従って、新政府の財政担当はこの三岡を置いて他にいない。」と記しています。また、実際三岡八郎は、維新後に由利公正と名を改め、明治政府の金融財政政策を担当し、活躍することになります(第49回監査の道)。

また、幕府の財政を悪化させたのが尊王攘夷の情勢でした。薩摩の生麦事件や長州の下関戦争賠償金の支払い、幕府威信低下による将軍の上洛費用、2回にわたる長州征伐費用など、特に下関戦争で英米仏蘭の連合国から長州藩へ請求された賠償金300万ドルを肩代わりして支払うことになったことは、大変な負担でした。この戦争はもともと長州藩が外国船に対して勝手に砲撃したものでしたが、長州は幕府の攘夷実行命令に従っただけであり、賠償金は幕府が負担すべきと主張しました。また、欧米4ヵ国は兵庫(神戸)港を早期開港すれば、賠償金は減額すると幕府に迫りましたが、孝明天皇は京都に近い兵庫の開港に断固反対したため早期開港は実現せず、幕府は賠償金を払う方を選択しました。しかし、結局、慶応3年兵庫港は開港することになったのでした。幕府は賠償金を分割で払うことにして、3回分150万ドルを支払ったところで崩壊し、残りの150万ドルは明治政府が引き継ぎことになり、明治8年にやっと完済されました。
しかし、米国だけは後にこの賠償金を返還することになります。賠償金は通常なら米国政府の歳入として国庫に納入されるものですが、その案が国会で否決され、下関賠償金基金として留保されることになりました。これは、弱小の日本から脅し取った高額な金であり、米国はこのように事実についてアメリカ議会と民間で大きな議論となりました。実際、下関戦争では米国の商船を改装した船タ・キアン号(Ta-Kiang,510-ton steamer)は何の損害も受けず、間接損失は約1万ドルに過ぎませんでした。米国では明治16年にようやくこの問題の決着が着き返還法案が制定され、支払った全賠償金額78万ドルを返還することになりました。この年には賠償金基金は利息などで183万ドルに達し、返還された賠償金の余りは下関戦争の戦艦の乗組員に対する補償金として支払い、残りは国庫に入れられました。なお、この返還については森有礼(もりありのり、薩摩藩士、第1次伊藤博文内閣文相、学制改革に貢献。)が米国で下関賠償金問題となっていることを知り、この基金を日本の教育に使用するように米国に働きかけたこともその一因となっています。
しかし、森は明治22年2月11日大日本帝国憲法発布式典に参加するため官邸を出た所で欧米思想に反対する国粋主義者に短刀で刺され、翌日亡くなってしまいました。まだ、43歳でした。その後、この返還金は、横浜港の築港整備費用に充当する事が決まって工事が始まり、明治29年に完成しました。

(参考資料)
「江戸幕府・破綻への道」 三上隆三 日本放送出版協会  1991年
「幕末長州藩の攘夷戦争」 吉川薫  中公新書  1996年



 

連合国によって占拠された長府の前田砲台
ウィキペディアより
  森有礼
ウィキペディアより
  • 中村 義人
    放送大学客員教授
    東洋大学 非常勤講師
    公認会計士 税理士
    税理士法人創新會計 役員

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