中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか―
 第81回 監査の道

さて、南部藩の御用商人村井茂兵衛(むらい もへい)」は、藩へ融通した金の返済にあたり、お上に対する町人の儀礼として受取書に「受け取り」と書かずに「拝借奉る」と書きました。(第79回監査の道参照)その後、明治4年廃藩置県が実施され、南部藩の借金を明治政府が引き継ぐことになり、大蔵省が藩の財政状態を監査しているときに係官はこの受取書を見つけました。係官は、村井は5万5400円余の藩からの債務を負っているとして、その代償として村井の家財を差し押さえ、尾去沢銅山を差し出すように要請しました。村井は、自分の債権を債務とする政府の考えに全く納得せず事実関係の弁明もしましたが、聞き入れてもらえず、明治5年尾去沢銅山は大蔵省に没収されてしまいました。このことを指示したのが、大蔵大輔(おおくらだゆう)の地位にあり事実上大蔵省(大蔵卿は大久保利通)の長官として権勢をふるった長州藩出身の井上馨(いのうえ かおる)でした。井上は借金の証文の実状を知っていたにもかかわらず、村井に無理難題を押し付けたものと思われます。

そして、さらに事件は広がります。井上は、この没収した尾去沢銅山を5万5000円で彼と繋がりのある政商岡田平蔵(おかだ へいぞう、江戸日本橋に生まれ米の売買や生糸の貿易を手掛ける。)に払下げ、無利子20カ年賦払いという好条件を認めたのでした。このことに怒った村井は、明治6年尾去沢銅山を返還するよう新しくできた司法省裁判所に訴えたのでした。この訴訟を担当したのが司法卿江藤新平(えとう しんぺい)でした。江藤は佐賀藩士ですが龍馬と同じように脱藩し、新政府樹立に大きな貢献をし、明治政府においては、司法職務制定、裁判所建設、民法編纂など司法制度の整備に力を注ぎ近代司法の父とまで呼ばれています。江藤は薩長藩閥政治の横暴を糾弾し、理不尽なこの取引を認めず、井上に返金するように大蔵省に命じ、井上を処罰するように太政官に求めました。しかし、当時の参議木戸孝允(きどたかよし、旧姓桂小五郎、長州藩士)ら長州閥の井上擁護により実現しないまま、その後征韓論政変などが起こり、征韓派であった江藤は議論に敗れ、西郷・板垣などと共に辞職することになってしまいました。
村井は、明治6年失意の中で亡くなりました。死の床で次の歌を遺しました。
「夢とのみ 聞きし浮世も 今更に 死ぬるばかりは まことなりけり」

江籐新平は、明治6年故郷佐賀に帰りますが、佐賀では征韓論賛成派の征韓党と新政府を不満とする憂国党が結成されていてその党首に推挙されました。そして明治7年政府の派遣した佐賀城に籠城する鎮圧軍と戦い(佐賀の乱)が始まり、佐賀軍は鎮圧されました。江籐は高知で捉えられ、東京の裁判で闘う覚悟をしていました。しかし、政府は急遽設置した臨時裁判所において、十分な審議をせずに斬首の決定が下され、江藤は特に厳しい梟首(きょうしゅ、晒し首)にされてしまいました。この佐賀の役を発端に明治9年には、「神風連の乱」(熊本県)、「秋月の乱」(福岡県)、「萩の乱」(山口県)が相次いで起き、鎮圧されていきます。そして明治10年薩摩士族が西郷隆盛を擁立して、最大規模の「西南戦争」へと続くことになります。

(参考資料)「近江商人」 末永國紀 中公新書 2000年
       盛岡市HP 盛岡の先人たち



 

史跡尾去沢鉱山
ウィキペディアより
  江藤新平
国立国会図書館 近代日本人の肖像より
  • 中村 義人
    放送大学客員教授
    東洋大学 非常勤講師
    公認会計士 税理士
    税理士法人創新會計 役員

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